XBOX版『信長の野望 嵐世記』

1571年冬、山城の足利家が寺社衆(比叡山の坊主ども)煽動による一揆で滅ぶ。無常なり。1572年は軍の立て直し、外交と忍者工作で終わる。1573年、常陸へ再侵攻。もちろん稙宗との共同作戦。今回も水軍衆は江戸家についたが、幸いにも稙宗軍の進軍スピードが早く野戦は大砲の射程外で開始された。南側より侵攻した我が軍は江戸家と国人衆の連合軍を野戦で圧倒、そのまま土浦城攻めとなる。なかなかの堅城で苦労したが、途中で我が軍についた寺社衆の協力もあって月末の戦闘フェイズ終了間際に何とか攻略。稙宗軍はきっちり最後まで北の太田城の江戸軍と小競り合いをしてくれたので大いに助かった。1574年、外交と忍者工作で終わる。1575年、常陸江戸城へ侵攻。稙宗との共同作戦。最初から国人衆と寺社衆が味方につく。さすが地方豪族、機を見るに敏だ。江戸史と豪将・真壁氏幹に苦戦するも野戦で勝利し、江戸城を攻略。しかし、太田城は稙宗軍に落とされてしまった。江戸家滅亡。江戸史を捕らえたが、知行500石提示でも下らない。まだ若く能力も素晴らしかったが、野に放って稙宗や安東に仕えられても困るので仕方なくみしるしを頂戴する。1576年、軍の再編と訓練、外交と忍者工作、出奔していた遠藤基信が帰参。1577年、上野の上杉家が下野に侵攻してくるも撃退。長尾家との共同作戦だったらやばかった。それにしても友好的な関係だったのに何故?と思い調べてみると上杉家の友好度だけが極端に下がっていたことが判明。原因はよく分からないが、もしかしたら上野の諸勢力衆が当家の良からぬ噂を振りまいているのかもしれない。とりあえず急いで使者を送り友好度を上げておく。1578年、朝廷より使者「左大弁」に叙せられる。そして一大ニュース、伊達稙宗死す!家督を継いだのは次男の大崎義宝。これが今川氏真級の凡将で、さっそく家臣数人が出奔する。遂に最大のチャンスが到来した。30年にわたるお家騒動に終止符は打てるのか。