『ロスト・イン・トランスレーション』 ■■■□

監督:ソフィア・コッポラ

近年これほど魅力的なファーストショットがあったでしょうか?(笑)。女性の若手監督がヴェンダースを介して日本にオマージュを捧げていることに深く感動しました。「翻訳の不可能性」や『鬼が来た!』さながらの滑稽な異文化交流といった部分は自分にとってオマケの要素でしかありません。ソフィアの父親がかつてヴェンダースと浅からぬ関係にあったことはシネフィルなら誰もが知っている事実だと思いますが、何気ないショットにヴェンダース的な記憶がふいに重なる瞬間がこの作品にはあって何か妙に嬉しくなってしまうんですよね。ちなみに『バッファロー'66』からの引用と思しきショットも幾つかありました(このことは本作のキャメラランス・アコードであることと無関係ではないと思います)。けばけばしいネオンや墓地やパチンコは『東京画』だし、ビル・マーレーが所在なげにベットに坐る姿は『パリ、テキサス』でモーテルのベットに坐るトラヴィスそのもの、大きなガラス窓とそこに映りこむ都会の風景はヴェンダース作品ではお馴染みの孤独を意味する記号です。富士山をバック(まるで松竹映画だ!笑)にゴルフをするフィックスショットなんてのも出てきますし、スカーレット・ヨハンソンが京都(「TOKYO」が「KYOTO」に反転して別世界が現われる素晴らしいシークエンス)に向かう新幹線の窓からは『東京物語』のような光り輝く海の情景が見えたりもするのです。窓だけではありません。本作にはガラスに対する繊細なこだわりがそこかしこに見てとれ、それが蓮實氏言うところの"ガラスの恍惚"を強く感じさせるのです。TVのブラウン管に映し出されるフェリーニの『甘い生活』もまた"ガラスの恍惚"に他なりません(さしずめ「ミニスカポリス」は『東京画』の「タモリ倶楽部」に対応していると言ったところでしょうか^^;)。都会とはガラスが氾濫する世界なのであり、その透明な壁は人の孤立をきわだたせる存在でもあるのです。"ガラスの恍惚"とは蓮實氏が「ヴェンダース論」の中で語ったように出会いが別れの同義語でもあるような遭遇の儀式であるとするならば、それが本作におけるビル・マーレースカーレット・ヨハンソンの関係に容易に当てはまってしまうのは言わば必然の結果と言えるのでしょう。傑作と声高に叫ぶつもりはありませんが、大好きな作品です。ソフィア・コッポラはもっと正当に評価されるべき映画監督だと思いますねぇ。決して上っ面だけの人ではありませんよ。鋭敏な感性を持った現代的な作家です。