保坂和志『この人の閾』読了 ◎

四つの短編。軽やかにして充実極まりない読後感だった。表題作『この人の閾』は三十代後半の独身男が、大学時代の映画サークル仲間の女性(既婚者)の家へ訪れ、庭の草むしりなどをしながらまったりと流れる午後の時間を過ごすというだけの一見何でもない退屈な話なのだが、男が女性の「閾」を知覚する過程が実にスリリングな対話劇である。『東京画』はバブル期の西新宿のはずれ(土地狂乱とは比較的疎遠な)とある街を舞台にした散歩文学の逸品。毎晩夕涼みする老夫婦と野良猫シロのエピソードが印象に残った。『夏の終わりの林の中』は白金の自然教育園を舞台に繰り広げられる、やはり静的にしてスリリングな男女の対話劇。ふいに挿入される首都高速の喧騒、植物学的な描写が良く、何故か映画的なイマジネーションを掻き立てられた。最後の『夢のあと』は鎌倉が舞台。これも男女三人が鎌倉駅から由比ガ浜までを他愛ない会話をしながら歩くだけの話だが、最後に超現実的なノスタルジーとも言うべき瞬間が描写されてやんわり奇妙な余韻が残る小品である。巻末の大貫妙子の解説文も素晴らしかった。


「「ある種のリアリティ」というのをたとえば「生の実感」などと言ってみるといかにももっともらしく聞こえるのかもしれないが、そんなことぼくは知らないし「生」などという言葉を使った途端にうやむやになってしまうものがあって、ぼくの考えるリアリティというのはそういうもので、毎日同じことを繰り返すというその確認作業のようなものの中にしかないリアリティというものがある」(『東京画』より抜粋)


保坂和志の未読の本がまだまだあると思うと嬉しくて仕方ない。本当に良い作家に出逢えた。

この人の閾 (新潮文庫)

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