今日は久々に立川シネマ・シティへアニメ映画『イノセンス』を観てきました。「映画の日」だったせいか、かなり人が多く、窓口へ行ったとたん「立ち見になりますが宜しいですか?」の一言。はうぅぅ、やってもうたぁ!(泣)。上映館がキャパ97席しかないところだったので、嫌な予感はしていたのですが・・・。もっと早めに来れば良かった〜と思っても後の祭り、まっ自業自得ですね(トホホ)。そんなわけで、館内右後方の壁にもたれかかりながらの鑑賞とあいなったのでありました。

イノセンス

いや〜凄かった。これは紛れもない傑作です。なにが、どう凄かったのかは後で述べるとして、まずはタイトルについて語らねばなりません。というのもこの作品、どう考えても『攻殻機動隊2』以外のタイトルはありえないと思えたからです。少佐こと草薙素子がネットの海に消えた経緯、「2501」というコード、剥き出しのボディにジャケットをかけるバトーなど、前作『攻殻機動隊』を観ていないと分からない要素が、かなり重要な役割を担っているし、何よりも前作と本作『イノセンス』はテーマ的にも話の流れ的にも有機的な繋がりを持っている、つまり二つで一つの作品と言っても良いのです。だから『イノセンス』だけを観てもほとんど楽しめないし、作品への理解も浅くならざるを得ないと思います。「2」とすることで一般客が遠ざかってしまうことは自明です。でも「ジブリ配給のアニメだから」とか「宣伝で知って何となく面白そうだったから」という理由で劇場に足を運んだ人のほとんどは、狐につままれたような印象を鑑賞後に抱いたのではないでしょうか。いかに商業的な理由とは言え、このような、ある意味観客を騙すような手口はどうかと思います。もちろん攻殻のこの字も知らない人たちの中にも『イノセンス』を面白いと感じる人はいるでしょう。しかし、それが何層にも積み上げられて構成された映画のほんの上っ面の部分だけを観て感じているに過ぎないのだとしたら、観た人にとっても監督にとってもこんなに不幸なことはありません。それは認識不足だった観客の責任ではなく、『イノセンス』という曖昧なタイトルにしてしまった製作側の責任になるのではないでしょうか。たかがタイトルですが、お金を取る以上、無視できない問題だと思うのです。

[感想]

人間とアンドロイドの境界が限りなく曖昧になった世界を描くことで「魂とは?」、「生命とは?」という答えなき問いへの接近を試みている点では前作と同じ。ただ、前作が"自己"に重きを置いた精神的なアプローチだったのに対して、本作では"機械の体"という物質的なアプローチによって人間存在の本質に迫ろうとしている。これを見ても前作と本作が一対の関係にあることが良く分かる。"人形"というモチーフを使うことで、人間とアンドロイドの関係性がより鮮明に浮き彫りになっているのだ。また、バトーの言動が前作の草薙素子と酷似している点も面白い。それによって、素子は人としての殻を脱ぎ捨て、バトーは人であろうとすることを望んだ、という異なった帰結がより一層強調されることになる。また、超人≒人間という図式の象徴として捉えてみれば、二人は合わせ鏡のような存在と言えるのかもしれない。表裏一体なればこそ合一願望によって生じる"愛"は存在し得なくなる。だとすれば最後の素子の言葉は果たして"愛"と呼べるものだろうか。否だと思う。寧ろ、あの言葉によって"愛"を超えた、或いは"愛"という概念を必要としない関係を示唆したと解釈するべきだろう。超人である素子にしてみればそれで良いのだろうが、果たして人であろうとするバトーはそれを容認できたのだろうか、それとも・・・。この無残な愛の敗北は『パトレイバー』の後藤と南雲の関係を想起させて何とも切なかった。さて、ちょっと話が観念的すぎるので作品の表層部分についての印象を語りたいと思う。まず何よりも圧巻だったのは、キムの館のシークエンスだ。過剰な装飾性と技巧を凝らした美術やギミックやトリック、その悪趣味とも言える混交はマニエリスム様式の影響が色濃く感じられる。本作のグロテスク、エロティシズム、人形、だまし絵的な細密映像、シュールレアリスム感覚と言った要素がすべてマニエリスムの範疇に含まれているのは興味深い事実である。また、擬似現実が創り出す同一シーンの反復によって「自己と存在」に関する膨大なセリフを一気に語らせてしまうところなどは如何にも押井守らしい力技の演出でニヤリとさせられた。また、未来都市の情景も前作のようなジメッとした陰鬱感とは違い、無機的な幾何学模様のデザインが中心になっているのが特徴。ちなみに中国風の武人が行進するシーンは「巨神兵」の火の七日間を彷彿させた(そう言えば押井が担当したパトのエピソードに「火の七日間」というのがある笑)。それと忘れてはいけないのがガイノイドというアンドロイドの存在。グロテスクで、エロティックで、儚げで、独特の雰囲気を感じさせる造形。後半のアクション・シーンでわらわら登場するが、動きがかなり不気味で、どことなく可笑しくもあった。物語ではほとんど触れられることはないが、この人形がセクサロイドと呼ばれる性的愛玩物に使われている点も非常に興味を引く。本当はこの部分をもっと掘り下げて欲しかったのだが、それをやるとジブリが慌てることは言うまでもない(笑)。そして音楽。前作のテーマ曲をマイナーチェンジしただけという感じは否めないが、それだけ完成度が高かったということなのだろう。二つで一つの作品、世界観の統一という面から考えるとこれはこれで良いのだと思う。「フォロー・ミー」は既存の曲でありながら、この作品の為に書いたとしか思えない歌詞の内容に驚かされた。楽曲自体も心に沁みる。ただ、あまりにも情緒的な響きが本作のドライな作風(と自分は感じた)に合っていないような気も少なからず感じられた。バトーと素子の関係に情緒的な、つまりウェットなものを強く感じ取った人にとって最良の曲であることは間違いないと思う。これを最後に聴かせることによって、混乱している観客の情感を巧みに操作しようとする某プロデューサーの巧緻な策謀もチラチラと(笑)。本作のもう一つの特徴として、キャラクターがやたらとアフォリズム箴言)を引用するということが挙げられる。これは押井守が好んで用いてきた演出だが、今回はちょっと度を越しているというか、ほとんど引用ずくしと言っても良いくらいに徹底されている。これは普通に考えれば不自然だけれど、外部記憶装置(TV版ではかなり詳細に言及されている)が存在する攻殻の世界にあっては至極当たり前のことなのである。ある意味、電脳社会におけるトレンディな会話形態の一つである、という言い方もできるかもしれない。勿論、検索すれば容易に情報が得られてしまう現代のネット社会に対する諷刺になっていることも確かだ。だからセリフが難解過ぎるだとか、スノッブだとか言う以前に、こういう会話が当たり前になってしまっている世界の滑稽さを笑うくらいの心のゆとりがあっても良いんじゃないだろうか。優れた小説や芸術作品というものはみな高度な抽象性を持っているものだ。既知のことを再認するだけではなく、未知のことを理解し、まったく新しい世界に挑戦することこそ本当に知的な楽しみ方と言える。観客に親切な作品ばかりがもてはやされる昨今にあって、観る人が自分の想像力、直観力、知識を限界まで総動員して、自分だけの解釈へと至るというような深みを持った思考的映画の存在は貴重だと思う。だから見てくれだけの中身スカスカ映画だと貶す人は、恐らく限界まで思考するのを途中で放棄したか、或いはそこまで思考するまでもないと早々に見切りを付けているだけなのだろう。それでは単なる中傷に過ぎない。つまり、あくまで個人の嗜好、見解なのであって、作品の質とは何ら関係がないのである。それを自覚することなくただ批判ばかりする人は信用できないし幼稚である。抽象的だからダメなのではなく、抽象的だからこそ面白い、という認識こそ健全な芸術の受け止め方ではないだろうか。「読書百篇、意おのずから通ず」ではないけれど、DVDが出たらじっくりと吟味してみたい作品です。やっぱり日本映画で今最もパワフルなのはアニメなのかもしれません。いや〜何やらエラくまとまりのない、文の垂れ流しになってしまいましたが、取り合えず『イノセンス』を観て、あれこれ感じた事を書き連ねてみました。考えが巧くまとまらない内に書いてしまったので、非常に読み辛かったとは思いますが平にご容赦下さいませ。

イノセンス創作ノート 人形・建築・身体の旅+対談

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「イノセンス」METHODS押井守演出ノート

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